| 武節城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:北設楽郡稲武町武節 別 名 :地伏城 築 城 :永正年間(1504〜1521) 初城主:菅沼定信 区 分 :平山城 遺 構 :空堀,土塁 城 域 :250mm×300m 標高 545m 比高 40m 町指定史跡 |
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【現地への案内】 国道257号線と国道153号線の交差点・稲橋を西へ焼く500m、城山神社 詳細位置はコチラ ![]() 【駐車場】二の曲輪に約10台程度 【訪 城】2003年5月 【撮 影】2003年5月
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【現地の状況】 稲武町の南、北方を流れる黒田川と、東方を流れる名倉川を堀とし、比高40mほどの丘陵地に曲輪を無数に設け、切岸防御を主体にして実に巧みに築城されている。 また、主曲輪の背後(西)には櫓台を設け、その櫓台の更に西には巨大な空掘りを配し、西側防御の要としている。この武節城のような大きな規模の城で、切岸防御主体の城を見るのは初めてのことで、非常に新鮮に感じた。 各曲輪は宅地、あるいは畑地となっているが、全体としては非常に状態よく残されている。主曲輪下の二の曲輪まで車を乗り付けることができるのは、嬉しいと云ってよいのかどうか複雑な心境である。 【城郭の歴史】
一名地伏城とも呼ばれるこの城は、永正年間に田峯の菅沼定信の支城として築かれ、菅沼十郎などの城代が置かれました。 弘治2年、下条信氏の侵略を受けて激戦がありました。また元亀2年武田信玄の三河侵入のときは本城である田峯城とともに戦わずしてその軍門に降りました。天正3年、長篠で大敗した武田勝頼は、この城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。越えて7月、酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。
稲武町には13箇所の城や砦があり、武節城はその中でももっとも大規模な城といえます規模250m×200m)いわゆる平山城と呼ばれる形態で、標高約550mの丘陵上に位置しています。現在は主郭となる曲輪をはじめ、4つの曲輪と掘切,土塁,櫓台などの跡が確認できます。また町の中には、当時の名残としてシロ山、関屋、大門、古町屋、屋敷といった地名が現在も残っています。 歴史的には16世紀のはじめ永正年間に田峯の菅沼定信が支城として築いたと伝えられていますが、永禄3年に菅沼久助宛に出された今川氏真の感状に「武節筋堅固走廻」と記されているのが歴史的初見といえます。その後、武田・織田・徳川といった戦国大名たちの勢力争いの中で落城することなく存続し、天正18年に徳川家康が関東に移封されたことに伴い廃城になったと伝えられています。なお天正3年の長篠合戦で大敗した武田勝頼は甲州への帰路、武節城で一夜を明かしたと伝えられ、その時梅酢湯を飲んだというのは有名な言い伝えとして残っています。 |
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