武田勝頼は天正元年父信玄の跡を継いで武田氏の当主となった。宿敵織田信長・徳川家康と長篠において戦ったが利あらず敗退した。その後、新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川の郡に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったが、背かれて、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。 その後、家康入国し、勝頼など一族の菩提を弔うため、僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。現在本境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。 山梨県教育委員会 −現地案内板より−
勝頼の法名は、景徳院殿頼山勝公大居士,勝頼婦人の法名は北条院殿模安妙相大禅定尼,信勝は法雲院殿甲厳勝信大居士である。勝頼婦人を北条婦人とも云うのは、婦人が北条氏政との女であるところから来ている。 境内には、勝頼以下の世辞の句が碑に記されている。 勝頼公世辞の句 おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端 勝頼婦人世辞の句 黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒 信勝公世辞の句 あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢 このとき、勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であったと云う。 3基の墓石の両側にある方形塔の墓石は、勝頼公と共に最期を遂げた将兵や侍女たち50人の墓である。なお、甲将殿の前には三人の生涯石といわれる平たい石がある。
時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主・小山田信茂が謀反を計っていることを言上し、勝頼公はやむなく天目山に籠もり防戦することに決め、付き従う者は秋山紀伊守光継、阿波加賀守、土屋昌恒等43人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。その時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳勝頼の許しを請うたのである。 その夜天目山の頂は残雪を残して寒気厳しく疲れ果てた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りに落ちていった。 −現地案内板より−
【所在地】山梨県東山梨郡大和村田野1289 詳細はコチラ ![]() 【訪問日】2003年4月6日 【現地を訪れて】 武田氏終焉の地がどんなところなのか、訪問を思い続けて3〜4年、景徳院前の駐車場に車を止めた時、私の心拍数はかなり上がっていたと思う・・・・・・・少し大げさか。(^^) 田野は日川が作り出す小さな谷間にあり、今でこそ舗装された道路が走っているが、当時は日川沿いの小さな山村であったことが、現在の地形からも窺いしれた。この地形を見た瞬間から、織田・徳川軍に追いつめられ、ここを最後の地として選ばざるを得なかった勝頼の心中をおもんばかると、栄枯盛衰は戦国の常とはいえ、感傷的になってしまった。(^^; 景徳院を訪ねた後、鳥井畑古戦場を廻り、通りすがりの人に「天目山はどの山か」と訪ねるが、分からないという。結局、地元の人にも会えず、どの山が天目山なのか分からずじまいで帰路についた。果たして、どの山が天目山だったのか、未だに引っかかっている。また訪ねることになるのかもしれない。 |
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