当寺(応永9年 1402創建)はかねてより信玄公の外護を受けていたが、天正元年(1573)野田城を攻略の時、病に冒された公は帰国の途次、当寺においてしばし療養の後、卒去されたと伝えられる。 但し、その後再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である。 なお、当寺の記録によれば 「天正元年六月二十六日甲州太守武田大膳太夫信玄公法性院殿機山玄公大居士 当所尊体を埋む」とある。
【所在地】 設楽町役場の裏手 詳細はコチラ ![]() 駐車場あり、5〜6台駐車可 【訪問日】 2005年10月1日 【現地を訪れて】 武田信玄は野田城で病に伏した後、甲斐への帰国途中に駒場で他界したとされ、この設楽町・福田寺から飯田に抜ける三州街道(国道153号線)沿いに、信玄を荼毘に付した長野県下伊那郡阿智村駒場の長岳寺、そして信玄の墓といわれる信玄塚が根羽村横旗にある。 信玄が本当はどこで死んだかは判らないが、信玄の病が重くなった設楽町あたりから信玄他界説が流れ、それが口伝となって信玄の墓がいくつも作られたのだろう。ここ福田寺の墓は小さな一石五輪塔で、いかにもと感じられた。(^^) しかし案内板には、「再三火災のため資料を焼失し確実な事跡は不詳である」としながらも、「当寺の記録によれば・・・・・」というのは、日本語になっていない。(^^) |
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