近江 膳所城
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 城郭の概要
所在地:大津市丸の内町・本丸町
別 名 :石鹿城
築 城 :慶長6年(1601)
初城主:戸田一西
区 分 :水城
遺 構 :石垣,二の丸隅櫓,大手門などの城門
城 域 :145m×99m

 現地への案内
交通機関
近江大橋の南、膳所公園
詳細位置はコチラ 

 駐車場
 駐車場はなし。交通が激しく路上駐車も出来ない、北700〜800mのにおの浜の県立体育館辺りで探すか・・・・・。

【訪 城】1994年4月
【撮 影】1994年4月,2008年6月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


観光
膳所藩資料館
大津市御殿浜20-56

 本多神社境内にあり、膳所藩主本多家の家宝や膳所藩に関する資料約180点が展示されている。
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園城寺(おんじょうじ)

 天台寺門宗の総本山で、広大な境内には、安土・桃山時代の風格ある建築物が建ち、仏像や仏画など、多くの国宝、重要文化財が多くあります。また、近江八景の「三井の晩鐘」や「弁慶のひきずり鐘」等でも知られています。
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義仲寺
義仲寺

 松尾芭蕉は近江の美しい景観を愛し、この寺の草庵にたびたび滞在。生前の遺言によって境内に墓が立てられています。寺の名は源頼朝軍に追われ、粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬ったことに由来しています。
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膳所城本丸跡
膳所城本丸跡

 現地の状況
 膳所城は、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、翌慶長6年に大津城を廃して築かせたもので、近江から京へ入る東海道を押さえると同時に、大阪方に備える役割を担っていた。

 現在の膳所城は県道16号線、通称湖岸道路沿いにある膳所公園が、膳所城の本丸跡である。公園内の湖岸には石垣の一部が遺構として残る。二の丸跡、および三の丸跡は膳所公園の南に続いていたが、現在では膳所浄水場となっている。

 湖岸の石垣の大部分は明治18年に着工、同23年に完成した大津〜京都間の疎水に転用され、内堀の石垣も膳所団地を造る際に埋められている。

 明治3年に廃城となった膳所城の遺構は、膳所神社の本丸大手門をはじめとして本丸二層隅櫓、その他城門などが膳所城周辺に数多く残っています。
詳細は、「膳所城の移築門など遺構めぐり」を参照。

 縁心寺(大津市丸の内町)は膳所城の初代城主戸田一西(かずあき)が慶長7年(1602)に創建したもので、膳所藩主本多家の菩提寺でもある。
縁心寺の境内には初代城主の戸田一西、をはじめとして膳所藩主本多家の歴代藩主の墓がある。
膳所城の土塀と堀
膳所城本丸の堀跡

 城郭の歴史
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長6年(1601)に当時の大津城主であった戸田一西(かずあき)に命じて築いたもので、縄張りは築城の名手とされる藤堂高虎があたった。
 築城にあたっては、関ヶ原の戦いで損傷を受けた大津城を改修する案も検討されたが、大津城は背後の長等山から城内が見渡せるという欠点があることから、大津城を廃して膳所城の築城が決定された。
 膳所の地に築城するにあたっては、瀬田城や窪江城の跡地も比較検討されたという。

 湖岸に築城された膳所城は、「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と詠われ、別名を「石鹿城」とも呼ばれた。

 慶長7年(1602)戸田一西が大津城から移って以来53年間に、戸田氏,本多氏,菅沼氏,石川氏と替わり、慶安4年本多俊次が再封されて以後は本多氏が13代続き、明治3年に廃城となった。

 明治3年の廃城時に、王政復古の早期実現を望む旧藩士たちによって、太政官布告の翌日に取り壊され、記録類なども消却され、資料などもほとんど残っていないが、当時は三間四方の四層の天守閣が湖面に写っていたと云われる。

 なお、膳所城は徳川家康が関ヶ原の戦い後、最初に築いた城で、その後徳川家康は慶長8年(1603)に彦根城、慶長13年(1608)には丹波篠山城、慶長16年(1611)には伊賀上野城と大阪方に備えて城を築いていく。

膳所城をもっと紹介

膳所城の城門(模擬)
膳所城の城門(模擬)


膳所神社に移築された本丸表門(重要文化財)
膳所神社に移築された本丸表門


湖岸に残る石垣の跡
湖岸に残る石垣の跡


縁心寺にある膳所藩主の墓
縁心寺にある膳所藩主の墓
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