所在地:東浅井郡湖北町山本
別 名 :阿閉城
築 城 :平安時代末期
初城主:山本義経
区 分 :山城
遺 構 :土塁,曲輪跡,堀切
城 域 : −
標高 324m
比高 235m
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湖岸道路・湖北町山本
詳細位置はコチラ

・駐車:宇賀神社横に1台
【訪 城】2000年7月
【撮 影】2000年7月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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山本山の西側、宇賀神社の本堂横から登り始める。
山本山から賤ヶ岳までの約8kmがハイキングコースとなっており、山道は良く整備されている。この山道を30分〜40分ほど登ると二の丸へ出る。
二の丸は、山頂付近の緩やかな傾斜地を3段の削平地に区切られて、二の丸から一の丸へは土塁による虎口を経て繋がっている。
一の丸から一番馬場跡,二番馬場跡を越えたところから尾根筋に4条の堀切が続く。
山本山城の見所は、一の丸の北東側に設けられている見当杭(物見櫓と推定)であろう。位置的にみても、ここから北国街道を監視していたことは間違いない。
山本村側では山本山、あるいは山本山城と呼ぶのに対して、阿閉(あつじ)村側では阿閉山または阿閉城と呼ぶ。
大手道は山本山市場地区の中央部に位置する朝日小学校裏手の登り口と考えられ、円乗院常楽寺境内を経て山上に至る林道、若しくは西阿閉地区の西側より登り二番馬場曲輪に至る林道と考えられている。
朝日小学校,朝日公民館辺りは山本城主であった、浅見対馬守の居館跡である。また、江戸末期に水野氏が山形藩より旭山藩に移封されて陣屋をおいた所でもある。
治承4年(1180)に山本義経の本拠を平知盛・資盛が攻撃した時から山本山城が歴史に登場している。
その後、京極氏の被官であった阿閉氏(あつじ)が入ってその本拠とした。一時、尾上城の浅見対馬守が浅井亮政に対抗して籠城。
織田信長の浅井攻めに際しては、浅井氏の居城・小谷城の支城として位置づけされていたようである。
天正10年(1582)山崎合戦後、廃城となった。
【野暮の独り言】
元亀3年8月比叡山を焼き討ちした織田信長は満を持して小谷城攻めを行った。この時、大嶽城の北に位置する焼尾砦を守備していたのが浅見対馬守である。
浅見対馬守は信長に内通し、織田軍を焼尾砦に引き入れた。これが大嶽城の落城、更には小谷城落城のきっかけとなっている。
浅井氏亮政、長政父子の運命は、過去に浅井氏と対立したことのある浅見対馬守を信頼に足る人物かどうか見抜けず、焼尾砦に入れた時点で決まっていたのかもしれない。
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