近江 山田城

【城郭の概要】

所在地:草津市南山田町  
別 名 :− 
築 城 : −
初城主:山田氏
区 分 :平城 
遺 構 :堀,井戸
面 積 :300m×400m(栗田郡志による)





二重堀
二重堀
メモ
・交通:県道4号線・山田信号東入る(現在は草津武道館が建てられている)
詳細位置はコチラ 

・駐車:空地を利用
・撮影:2001年1月
遺構の保存状態
遺構確認し易さ
体力消耗度
お勧め度

★の数の多い方が良い(または、激しい)
















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【現地の状況】
 
2001.1.20(土)現地説明会が雪の中で開催され、直径約60mの円弧を描く円形の二重堀が検出されていた。

 外堀の西側には杭が何本も残っており、橋脚であったものと推定されている。その他、2本の井戸も発掘されているが、曲輪部分は大正時代に土取りをされたらしく、検出されていない。

 円形をした城郭が発見されたのは全国でも始めてとのこと。静岡県藤枝市にある田中城も円形であるが、これだけ正円には近くはないとの説明があった。(規模があまりにも違いすぎると思うのだが・・・・)
 なお、発掘された堀跡などは調査終了後、草津市立武道館建設のため埋め戻しされた。

外堀と橋脚
外堀と橋脚

【城郭の歴史】
 山田氏は「栗田志」の記述を信じるならば、信長の近江侵攻に伴い、主君六角氏と共に退散したといわれており、その後の記録は残っていない。
また、退散以後、信長の子供である信孝(栗太志では信秀の誤りとしている)が一時、居城としていたとされている。

 したがって、山田城は16世紀後半まで存在していた可能性が極めて高い。しかし、今回の調査で出土した遺物は15世紀初頭を下限とするものであり、16世紀のものは認められていないことから、調査結果と山田氏の歴史との間には、1世紀の空白が存することとなる。

 一方、「栗太志」の記述、地籍図ならびに明治25年の測量図に描かれた地形から城はこの地にあり、また、「栗太志」等の記述から、山田城は方形の居館であった可能性が極めて高いことが指摘できる。
 また、古老の言から、明治以後の開発により、先の微高地の削平が相当行われたことも考えることができる。

 以上の点を総合するならば、16世紀、山田氏が退去するまで氏が居城とし、退去後、信長の子が一時、居城としていた山田城は、調査で検出した円形の居館ではなく、15世紀以後に再々度普請された城である可能性が高く、その時には防御の点で優れた方形居館であったことが考えらる。
また、再々度の普請により作られたと考える方形居館は、後世の開発により消滅したことが考えられる。

 次の問題点は、何故、当初の山田城が円形の堀を有しているのかという点だが、円形に堀を巡らす要因に関しては、一つに山田城が存在する山田五条から岡地区に展開する円形地割との関連性が想定される。

 当該地周辺において認められるこの円形地割は、集落北側を流れる草津川等の河川活動により形成された極めて自然的側面の強い地割と考えられ、山田城にて推測される堀の円形構造はこれら周囲の地割および微地形に規制され成ました可能性が考えられる。
 しかし、当該事例がほぼ正円に近い構造を持っている点などから、堀が円形構造を採る要因全てを周辺地形の影響のみで捉えることにも無理があるのも事実である。
現地説明会の資料より

近江の城郭