以下、山田城現地説明文の転載
山田城跡は、室町時代、近江国守護職にあった佐々木六角氏に仕え、湖岸の物資運搬、搬入の拠点であった山田港を管掌した山田氏の居城と伝えられています。(栗太志・栗太郡志等)
記録では山田城は旧山田小学校跡地周辺を城跡に比定しており、また、記述内容から山田城は四方に土塁を配したいわゆる方形居館であると考えられてきました。
これまで、本市では昭和58年度および昭和59年度に当該地および周辺地において調査を実施しています。このうち、58年に行なった試掘調査では鎌倉時代の遺物を含む延長90m以上の弧状に巡る堀ならびに時期不明の落ち込みを確認し、59年度の調査では13世紀初頭のものとみられる堀等を確認しましたが、いずれの調査でも山田城の具体的内容を明らかにするまでには至りませんでした。
このように依然として不明な点が多い山田城について、今回、昭和58年度の試掘調喪地に(仮称)草津市立武道館建設に伴う事前調査を平成12年10月より実施しています。
明治28年発行の陸地測量部作成の地形図(明治25年編集)によれば、。北山田五条地区ならびに南山田岡地区内に微高地1および微高地2という2箇所の微高地の存在を認めることができ、これらの土地のいずれかが「栗太志」の記述にある山田城跡を示すものと考えられます。
また、微高地周辺には今も水田が広がっていますが、現在も山寺川や伯母川等の河川の影響を強く受けた低湿な土地柄、湖岸部特有のクリーク等が発達した地形は、山田城を取り巻く天然の要害となりえるものであり、こうした防御に適した、且つ矢橋港、志那港とともに中世文書に度々登場する湖岸の良港であった山田港に近接する地理的要因が、ここに城が設けられた要因の1つであったことは想像に難くありません。
なお、いわゆる鬼門方向といわれる今回調査区の北東には白鳳四年の勧請伝承をもつ「山田正八幡神社」が存在します。当該神社の祭神は、武家か信奉する応神天皇であること、また、城と神社の位置的関係から、多くの中世城館がそうであるように当該神社が城主ならびに一族の信仰の対象であった可能性が考えられます。
また、平成2年度、滋賀県教育委員会では南山田地区で圃場整備事業に関連し発掘調査を実施していますが、14世紀から15世紀にかけての井戸跡および溝跡等が検出されており、まさに「山田城の時代」の人々の生活域が城の南側に展開していたことが判明しています。
今回の調査は、明治28年発行の地形図に描かれた東側の微高地及び周辺を対象に実施しています。
地図および地籍図に描かれた微高地は崩れてはいますが方形状を呈しており、先の「栗太志」の記述と併せて、城跡が方形居館であると想定していましたが、実際、調査で検出したものは円形に巡ると推測される堀状遺構であったことから、方形居館ではない円形の構造をもつ居館である可能性がでてきました。
なお、城を円形に巡ると推測される堀状遺構は、2条検出されています(便宜的に外側に位置する堀をSD2、内側に位置する堀をSD1と呼称します。)が、それぞれ時代的に異なり、SD1が13世紀中頃から後半、SD2が14世紀から15世紀初頭の所産と目されます。
しかし、幾つかの問題点も浮かんできました。以下、問題点について述べ、本報告のまとめとしたいと思います。
まず、織田信長の近江侵攻時まで、近江国守護である佐々木六角氏に仕えていた山田氏の店城はどこにあり、どのようなものであったのかという点です。
山田氏は、「栗太志」の記述等を信ずるならば信長の近江侵攻に伴い、主君六角氏と共に退散したといわれており、その後の記録は残っていません。また、退散以後、信長の子供である信孝(栗太志では信秀の誤りとしている)が一時、居城としていたとされています。
したがって、16世紀後半まで山田城は存在していた可能性が極めて高いわけです。 しかし、今回の調査で出土した遺物は15世紀初頭を下限とするものであり、16世紀のものは認められていないことから、調査結果と山田氏の歴史との間には、一世紀の空白が存することとなります。
一方、「栗太志」の記述、地籍図ならびに明治25年の測量図に描かれた地形から城はこの地にあり、また、「栗太志」等の記述から、山田城は方形の居館であった可能性が極めて高いことが指摘できます。また、古老の言から、明治以後の開発により、先の微高地の削平が相当行われたことも考えることができます。
以上の点を総合するならば、16世紀、山田氏が退去するまで氏が居城とし、退去後、信長の子が一時、居城としていた山田城は、調査で検出した円形の居館ではなく、15世紀以後に再々度普請された城である可能性が高く、その時には防御の点で優れた方形居館であったことが考えられます。また、再々度の普請により作られたと考える方形居館は、後世の開発により消滅したことが考えられます。
次の問題点は、何故、当初の山田城が円形の堀を有しているのかという点です。
円形に堀を巡らす要因に関しては、一つに山田城が存在する山田五条から岡地区に展開する円形地割との関連性が想定されます。
当該地周辺において認められるこの円形地割は、集落北側を流れる草津川等の河川活動により形成された極めて自然的側面の強い地割と考えられ、山田城にて推測される堀の円形構造はこれら周囲の地割および微地形に規制され成立した可能性が考えられます。しかし、当該事例がほぼ正円に近い構造を持っている点などから、堀が円形構造を採る要因全てを周辺地形の影響のみで捉えることにも無理があるのも事実です。
したがって、今後、事例の増加を待って再度、検討を加えていく必要がありますが、まずは円形の堀成在の要因に地形的影響を挙げておきたいと思います。
以上、今回の山田城跡の調査により円形に巡ると推測される特異な構造の堀が確認されたことは、今後、日本の中世史、および城郭史を検討する上で貴重な事例となるといえるでしょう。
以上