所在地:東近江市永源寺和南
別 名 : −
築 城 :南北朝時代
初城主:和南大炊助実経
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀,土橋
城 域 : −
標高 234m
比高 約100m
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国道421号線上山小学校前の交差点から県道188号線を南下、約2km和南地区多度神社の背後

空地を利用
【訪 城】2004年8月,2007年5月
【撮 影】2007年5月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

和南地区、脇山(和南山)の山麓にある多度神社の背後から西尾根を登ると、狭い尾根上に平行して竪堀状の窪地が続く。通常の竪堀は尾根と直交する形で配置されるもので、これが防御施設の一部かどうか結論を出すには至らず。
5分足らずで横堀と比高差4mほどの切岸を介して主曲輪に至る。主曲輪の削平状態は良いとは云えないが、西から南にかけて内法に石積みをした土塁が廻らされている。
主曲輪の背後に2つの大きな曲輪を連ねるが、いずれもほとんど削平されていない。最高部の曲輪の背後は、尾根幅が狭くなる地形を利用して、土塁と横堀を尾根に直交する形で配置し土橋を渡している。土橋の位置は尾根の南端に寄せられ、横矢を意識している点は注目される。
この土橋から更に100mほども登ると、2つ目の横堀と土橋が確認できる。
2つ目の土橋から20分ほども険しい斜面を登ると脇山(和南山)の山頂に至るが、この間に城郭遺構はない。
山頂も含め尾根幅は5〜15mほどと狭く、守りに徹する城を築くなら高所の方が好ましい地形をしているが、和南城があえて比高が低く、尾根幅が最も広い地点に築かれているのは、街道監視と比較的多くの軍勢を収容する必要があったからではないだろうか。
和南城は、代々和南氏が常住した城で、創建年代は南北朝時代とされている。 永禄元年(1558)、京都・堺を離れて帰途についた織田信長を、小倉右京亮実治が相谷からの八風越の道案内をしたが、佐々木六角承禎はこれを怒り、小 倉右京亮実治を攻撃した。これが今に残る和南山の合戦である。 (中世城郭辞典より)
永禄元年(1558)八風峠を越えて尾張へ帰国する信長の道案内をしたのは小倉左京亮実房であるが、上記中世城郭辞典記載の小倉右京亮実治とは小倉左京亮実房と同一人物か?
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