近江 宇佐山城

【城郭の概要】

所在地:大津市錦織町 
別 名 :志賀の城
築 城 :元亀元年(1570)
  
初城主:森可成
区 分 :山城 
遺 構 :石垣・空堀・升形・武者隠し 
面 積 :50mx160m  
     標高336m 
     比高210m

織田氏の紋

(木瓜)


二の丸の石垣
二の丸の石垣

・交通:国道161号線柳ケ崎交差点西入る
・駐車:八幡宮参道に数台駐車可能
・撮影:1999年7月
遺構の保存状態 ★★
遺構確認し易さ ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★

★の数の多い方が良い(または、激しい)
現地の状況
 近江神宮に隣接する宇佐八幡宮の参道から登る、これが大手道のようだ。本堂近くまでは車で上ることが出来る。そこから先は、細い山道となるが、この山道の入り口が判りづらい。
 急勾配の山道を登ること約20分で、尾根筋に出る。舗装された山道と合流、どうやらNHKのテレビ塔のメンテナンス用の道らしい。
 縄張りは3つの曲輪で構成されており、テレビ塔の建っているところが本丸跡のようである。
 テレビ塔から一段下がった南側に位置してい削平地の南斜面に高石垣(二段構えになっており、犬走りが認められる)が20m近くにわたって残っている。ここが二の丸跡のようである。

 現在では雑木のために展望は北方しかきかないが、この方面には今道越え(山中越え又は県道30号線)の一望でき、また、少し離れるが、逢坂越え(東海道)をも押さえることは十分可能であり、信長が京へ出入りするための街道を確保するという目的で築城されたことが伺い知れる。


【城郭の歴史】
 
元亀元年(1570)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都へ逃げ帰った織田信長は、京都から岐阜城へ帰るに先立ち築いた城が宇佐山城で、配下の森可成(よしなり)に守備させた。

 元亀元年9月、石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて、浅井・朝倉軍は宇佐山城を攻めた。浅井・朝倉軍は2万、これに対し宇佐山城を守る森可成の配下は500人余り、城兵は奮戦するも、9月11日に落城した。

 宇佐山城の落城を知った信長はすぐさま摂津より引き返し、宇佐山城を奪回し、比叡山、壺笠山城に楯籠もる浅井・朝倉連合軍と対峙したが、比叡山からの援助を受ける浅井・朝倉軍に対し四方に敵を抱えた信長は、勅命を仰ぎ和議を結ぶと岐阜に帰陣した。
 翌元亀2年9月、信長は浅井・朝倉に味方した比叡山に対し焼き討ちをかけることになる。
 元亀3年(1572)に坂本城が築城されると、宇佐山城も廃城となる。