| 近江 太平寺城 |
| 【城郭の概要】 所在地:坂田郡伊吹村伊吹 別 名 :霞ケ城 築 城 :弘安年間(1278〜1286)か? 初城主:京極氏信 区 分 :山城 遺 構 :横堀 面 積 : −
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・交通:現在では伊吹鉱山の管理地 ・駐車: − ・撮影:2002年7月
★の数の多い方が良い(または、激しい) 【特記】 太平寺城跡は、現在では伊吹鉱山の管理地となっており、自由に登ることはできないが、今回は縁あって、工場見学の形で見学させていただきました。 当日は休日にもかかわらず、現地をご案内いただいた伊吹鉱山のN氏に改めて感謝する次第です。 m(_ _)m |
【現地の状況】 太平寺城跡は現在では伊吹鉱山の管理地となっているが、伊吹鉱山の操業が始まる昭和38年2月以前には太平寺の集落として利用されていたこともあって、太平寺跡と称される一帯には階段状の削平地が多数認められる。 その中にあって、比較的高所で太平神社が祀られている削平地は切岸の高さが4〜5mと周辺の切岸とは一線を画する高さで、ここが太平寺城の中核部分ではないかと考えられる。 それを裏付けるように、太平神社への石段下の左右に大きな横堀が認められる。 大平神社の右手横堀は堀幅2〜3mで大平神社を中心に円弧を描くように30mほど延びて消失している。 また、左手の横堀は幅約4mと右手の堀より若干広く、10〜15mほど緩斜面を登り削平地に繋がっている。また、この堀左手の土塁上は削平は不完全ながら、位置的には太平神社一帯の防御に重要な役割を担っていたのではないか。 今回、城の遺構として確認できたのは太平神社付近だけであったが、特に横堀遺構は明瞭で、規模や状態からすると、京極氏時代のものではなく、近江において築城技術の発達をみる永禄〜元亀年間(1558〜1572)に改修されたものではないかとの印象を受けた。 湖北における山城の防御用パーツは竪堀が主であり、横堀防御の城が観られるのは元亀年間あたりからである。このことからも太平寺城の横堀が京極氏以後のものであるということが言えるのではないか。 【城郭の歴史】 太平寺城は伊吹山の南西斜面、標高450m付近の太平寺の跡を利用して、佐々木定綱の四男・氏信が愛知川以北の、愛知、犬上、坂田、浅井、伊香、高島の六郡を与えられた後に築いた京極氏の居城である。 城の背後を伊吹山の急斜面に守られ、東側は大富沢に落ち込む要害の地にあり、地形的には兵法で云う「後ろ堅固の城」である。また、北陸と東海を結ぶ北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる要衝の地にある。 京極氏は拠点・居城を太平寺城,上平寺城,柏原城,勝楽寺城および河内城と、その時々に変えていたとされ、この太平寺城がいつ頃まで城として使われていたのか明確ではないが、京極高清が明応年間(1492〜1499)までは太平寺城を使っていたのではないかとされている。 |
