| 所在地:彦根市中山町 |
| 別 名 : − |
| 築 城 :天文13年(1544)か |
| 初城主:今井氏か |
| 区 分 :山城 |
| 遺 構 :土塁,堀切,土橋,堅堀 |
| 城 域 : − |
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国道8号線から摺峠針を越えて、すぐ
詳細位置はコチラ 
【訪 城】2000年6月,2008年3月
【撮 影】2008年3月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
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★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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菖蒲岳城は中山道が番場から摺峠針へ抜ける街道沿いにあり、眼下に街道を押さえる標高260m〜290mの山上に築かれている。
中山道の摺峠針の東、中山町への分岐点付近から山中に入り、尾根筋を北へ登ると約20分ほどで尾根が分岐するピークに着く。
菖蒲岳城は2つの城域で構成されており、このピークから東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。
南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した3の曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。
一方の北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。
菖蒲岳城から北方には太尾山城,地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。
-------------- 以下、嶋記録(天文13年(1544)6月27日)
今井本領案堵望之事
去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや
--------------ココマデ
上記嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応したものとして注目される。
また、同じく嶋記録に以下の記述がある。
-------------- 以下、嶋記録
箕浦帰参之事
覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也
--------------ココマデ
天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していたことを嶋記録は伝えている。 |


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