近江 新村城(しんむらじょう)
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【城郭の概要】

所在地:東近江市新宮町
      (旧能登川町新宮東)
別 名 :志村城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平城 
遺 構 : −
面 積 : −

新村城跡とされる一帯
新村城跡とされる一帯

・交通:県道2号線(大津能登川長浜線)、今の信号を西へ約1.5km、川南地区

・駐車:路上駐車
・撮影:2004年2月
遺構の保存状態 ★★
遺構確認し易さ ★★
体力消耗度
お勧め度 ★★

★の数の多い方が良い(または、激しい)
【現地の状況】
 浄土真宗本願寺派、浄蓮寺の東側一帯が新村城とされる。浄蓮寺の前、道路脇には新村城主の墓だという伝わる宝篋印塔が一基残されている。

 新村城主・志村氏は、元々は高橋氏がこの地に移って志村氏を名乗ったとされる。
 地元の古老の話では、六角氏について織田信長と戦い敗れた時に 670人が打ち首になったと云い、子供と孫は静岡に逃がした云う。

 なお、浄蓮寺は新村氏の菩提寺とも云われる。この寺の本堂には “輪違い紋” が掲げられているが、これは志村氏が改姓する以前の高橋氏時代の家紋であったという。ちなみに志村氏の家紋は揚羽蝶紋である。
新村城主の宝篋印塔
新村城城主の宝篋印塔

【城郭の歴史】
 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告(石山合戦)する。
 この顕如の檄に対して、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城する。


 新村城の攻防について「信長公記」の元亀二年の項に記述があるので、紹介しておきます。
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志むら攻め干さるゝの事
 八月廿八日、信長公、佐和山へ御出で、丹羽五郎左衛門所に御泊。先陣は一揆楯籠り候小川村志村の郷推し詰め、近辺焼き払ふ。
 九月朔日、信長公、志むらの城攻めさせ御覧じ、取り寄する人数、作久間右衛門、中川八郎右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門、四人仰せつけられ、四方より取り寄せ、乗り破り、頸数六百七十討捕る。これによって、並郷、小川の城主小川孫一郎、人質進上候て、降参申すの間、御赦免なさる。
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 信長公記の記述によると、この新村城の落城によって、小川城に立て籠もっていた小川孫一郎(小川土佐守祐忠)も降伏を申し出たと記されています。
 元亀元年(1570)の志賀の陣(比叡山を拠点に立て籠もる浅井・朝倉軍との戦い)をはじめ、元亀争乱の中で苦況にいた信長が、この新村城に立て籠もった一向一揆衆に対し、厳しい態度で望んだことが窺われます。

 一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。



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