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別 名 : − 築 城 : − 初城主:山岡景房 区 分 :平城 遺 構 : − 面 積 : −
瀬田唐橋東詰め県道29号線を南へ500m JR石山駅から、徒歩約20分 詳細位置はコチラ ![]() 駐車場はなし 【訪 城】2000年6月 【撮 影】2000年6月,2008年9月
体力消耗度 ★:山道はほとんどなし ★★:10分〜30分程度の山登り ★★★:約1時間ほどの山登り |
在りし日の臨湖庵は数寄屋風の小振りな門と、玄関前には高さ5mほどの土塁を思わせる築山もあったが、そういった風情などは全くなくなり、城郭建築を想像させる白壁の塀がマンションの前にあるだけだ。 瀬田城の跡に臨湖庵が建ち、その跡地に料理旅館、料理旅館の跡に高層マンション、これも時代の流れか。 武田信玄が根羽村横旗の陣中で臨終の際に、「我が軍旗を瀬田に立てよ」と云ったとか、その真意のほどは別にして、瀬田が京を押さえる要衝の地であるからに他ならない。 現在も唐橋の他、国道1号線,名神高速,JR,新幹線など、交通の幹線が瀬田川を渡り、交通の要衝であることは今も変わりない。
この瀬田城は、「寛政改修諸家譜」によれば、瀬田の土豪山岡氏の一族で、田上城主であった山岡資広が永享年間に初めて築城したとされ、以後、瀬田城は代々山岡氏の居城となった。 山岡氏は、当初六角氏の被官であったが、永禄11年(1568)、織田信長の入京後は一転して織田方に属した。 天正10年(1582)、明智光秀が本能寺に信長を討ち、安土城に向かおうとした際、瀬田城主山岡景隆を味方に引き入れようとしたが、景隆は主君の恩顧を裏切れないという理山で、光秀の行手を妨げるために瀬田橋を焼き落とし、甲賀へ引き上げたという。以後、瀬田城は廃城となった。 その後、膳所藩の別亭となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名付けたという。
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