大岩山砦
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 城郭の概要
所在地:伊香郡余呉町下余呉
別 名 : −
築 城 :天正11年(1583)
初城主:中川清秀
区 分 :山城
遺 構 :土塁,竪堀
城 域 : −


 現地への案内

 国道8号線賤ヶ岳口から余呉川沿いに大沢地区まで約1.5km
詳細位置はコチラ 

 駐車場
 大沢寺前の駐車場に4〜5台
【訪 城】2002年12月
【撮 影】2002年12月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

大岩山砦の虎口と曲輪
大岩山砦の虎口と曲輪

 現地の状況
 大岩山砦へは木之本町黒田の大澤寺への階段横から3〜4m幅の山道を約10分登ると、賤ヶ岳から大岩山へ続く尾根のハイキングコース道に出る。
ここから更に10分ほどで大岩山山頂に着くが、途中に秀吉が敗走する佐久間盛政の追撃戦の指揮をとった云われる猿が馬場や、中川清秀の首を洗ったという首洗い池等があり、これらを見ながら歩くと、大岩山山頂までは距離を感じさせない。

 大岩山山頂の砦跡は南北20m,東西40mほどで、北〜東〜南には高さ0.7〜0.8mほどの土塁が残る。また、東端に中川清秀主従の供養塔が建てられており、中川清秀の墓には「浄光院殿行誉荘岳大居士」と彫られている。

 大岩山砦の東側虎口は一見、平虎口のようであるが、虎口に通じる現在の道は後年のハイキング道で、従来の道は尾根から2度折れして虎口に至っており、虎口構造は他の秀吉軍の陣城同様に、技巧的な縄張りを見ることが出来る。
 一方、山頂の砦から北に延びる三つの支尾根にはそれぞれ曲輪が設けられてはいるが、堅堀や堀切などの防御施設は、猿が馬場の北に1条の竪堀が確認出来るだけで、虎口構造は技巧的であるが、防御施設の貧弱さが目立つ。

 こうした防御施設の貧弱さは、対峙する柴田軍との間には賤ヶ岳砦などが位置しているという安心感からきているのであろうか。こうした心の隙を佐久間盛政に突かれたことが推測される。

 大岩山の山頂からは柴田軍主力部隊が陣を構える行市山が11時の方向に、また左手(西)には余呉湖周囲の山並みは手に取るように見え、佐久間盛政が行市山から余呉湖の周囲約10kmの山道を迂回して攻め込んできたことを肌で感じとることが出来る。

 なお、大澤寺にある鐘突堂の梵鐘は天正11年(1583)大岩山砦を落とした佐久間盛政軍が、大垣から秀吉軍の軍勢が帰陣したことを味方に報せるために乱打したものと伝えられ、梵鐘は銘文から応永19年(1412)の作とされ、木之本町文化財に指定されている。
鐘突堂からは、秀吉の本陣である木之本が一望される。

賤ヶ岳の戦いにおける両軍の布陣

中川清秀主従の墓
中川清秀主従の墓


大澤寺の鐘突堂
大澤寺の鐘突堂

 城郭の歴史
 大岩山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉方の武将・中川清秀(当時茨木城城主)が守備していた砦である。
 この砦を行市山砦の佐久間盛政が急襲したことに始まり、柴田勝家軍と羽柴秀吉軍の2ヶ月間にも及ぶ対峙は一気に両軍入り乱れる戦いとなった。





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【大岩山砦の遺構から考える賤ヶ岳の戦い】
 2003年5月25日に友人たちと大岩山砦を訪れた。前回(2002年12月)に訪れた時は、大岩山砦が勝家軍と対峙する北斜面の遺構ばかりに気を取られていたが、今回は滋賀県教育委員会作成の縄張り図を参考に、主曲輪南斜面に2本の堅堀を観ることが出来た。
これら堅堀の幅は頂部で4m前後、深さは2m〜3mで、その長さは20〜30mにも及ぶ。
中川清秀軍の砦にあって、敵(勝家軍)に対面する北斜面にはない堅堀が、なぜ砦背後の南斜面にあるのか疑問を感じた。

 中川軍が南斜面に竪堀を掘った理由としては、勝家軍が北国街道を南下、東野山砦堂木山砦・神明山砦の第1防御ライン、および田上山砦岩崎山砦・大岩山砦の第2防御ラインを中央突破して、木之本まで出てきた時の背後の備えとして掘られたものと考えられる。しかし、この考えには幾つかの疑問が残る。

 まず1点目は、秀吉軍が第1防御ラインの東野山〜堂木山・神明山間に逆茂木を設けて北国街道を封鎖している中、第2防御ラインの大岩山砦で勝家軍の中央突破を想定して、背後にまで防御施設を築くかどうか。まして、秀吉軍を裏切り勝家軍に内通した山路正国(将監)が堂木山砦や神明山砦に比べて防御が甘いと云った大岩山砦である。

 以下、参考のために山路正国(将監)が大岩山砦の奇襲を佐久間盛政に献策する「賤ヶ岳戦記」の下りを掲載する。
「「将監、玄番(佐久間盛政)にひそかに申しけるは、柵近辺の取手の要害念入りにて、其の上、壁なども堅固に御座候間、たやすく陥る可しとも覚え申さず候。賤ヶ岳の城は猶以てなり。然れども山街道二ヶ所の要害は、近々に構築申し、普請なども粗略にて、壁も新しく、土も未だ、かたまらず候間、・・・云々」

 2点目は、大岩山砦の主曲輪周囲には土塁が築かれている。この土塁は北側が高く、南側が低い。これは北方の勝家軍を想定しているからで当然のことである。しかし、南側の土塁の高さはは0.7m程度、北方の土塁にしても高さ1m足らずで、この土塁を観ると山路正国が佐久間盛政に「普請なども粗略にて」と献策したことが尤もと頷けるのであるが、南斜面の堅堀は主曲輪周囲の土塁と較べると圧倒的にスケールが大きく、同じ中川軍が造ったものと考えるのは不自然である。
 こうした疑問に対し、素直に考えるならば、大岩山砦の南斜面の堅堀を掘ったのは、大岩山砦を奇襲攻略した佐久間盛政によるものと云った結論が導き出される。

 太閤記や賤ヶ岳軍記等々によると、佐久間軍は天正11年4月20日の夜に行市山砦を出発し、夜を徹して約10kmの山中を移動、明け方に、大岩山砦を奇襲。大岩山砦が落ちたのは午前10時頃(高柳光壽著 賤ヶ岳の戦)だったという。
佐久間軍の兵士たちは夜間行軍に続き、中川軍との戦いで、負傷者も多く、また負傷していない者も疲労困憊していたはずであるが、こうした状況の中、佐久間軍は大岩山砦南斜面に堅堀を掘り、いずれ大垣から帰陣するであろう秀吉に備えていたことになる。

 これは、私たちが太閤記や賤ヶ岳軍記で知っている佐久間盛政の行動とは明らかに異なる。
 大岩山攻略後の佐久間盛政と柴田勝家とのやりとりについては、今日伝えられている内容は、どれも似たようなもので、「大岩山砦を落とした佐久間盛政に対し、勝家からは何度も速やかに引き取るようにと命令が届けられたにもかかわらず、勝利に驕った佐久間盛政は大岩山砦に止まった」と云うのが通説である。

 佐久間盛政が勝利に驕っていたならば、竪堀などを掘るだろうか。佐久間盛政は大岩山砦を死守することが勝家軍が勝利する必須の条件と考えていたのではないだろうか。あるいは佐久間盛政の行動自体が勝家軍の作戦ではなかったか。
いずれにせよ、今日我々が知っている賤ヶ岳の戦いは、後年、勝利者秀吉方によって作られた歴史であるということを改めて認識させられた大岩山砦の訪城だった。


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