| 近江 小川城 |
| 【城郭の概要】 所在地:東近江市小川町 (旧神崎郡能登川町小川) 別 名 :− 築 城 :− 初城主:− 区 分 :平城 遺 構 :堀,土塁 面 積 :− |
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・交通:県道2号線、今の信号を西入る ・駐車:路上駐車 ・撮影:2001年7月
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【現地の状況】 小川城は県道2号線"今"の信号から福堂今線(県道192号線)を西へ500mほど走った、小川地区のほぼ中心部に位置している。 現在では小川城址であることを示すものは、「小川老人憩いの家」の前に建つ案内板程度で、この案内板にしても、城址に建つものではなく、城址はここより西側の小さな川に挟まれた小字名で「城」と呼ばれている東西70〜80m、南北150m程度の地域である。 この城域西側に位置する川(当時の堀)は現在も堀跡であると云われても頷けるほどの広さを持つ。 最も、堀跡であることを示すものとして、福堂今線の道路を越えた北側には川が不自然な形で二俣に分岐されているのが、堀であったことを示す確証になるのではないだろうか。 小川老人憩いの家前に小さな林がある、この林の中にも高さ1〜1.5mほどの土塁がわずかながら残っている。 【城郭の歴史】 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告(石山合戦)する。 この顕如の檄に対して、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城する。 ----------------------------現地案内板より 小川土佐守祐忠と小川城址 元亀2年(1571)9月1日織田信長勢の攻撃を受け、小川城主、小川土佐守祐忠は7人の人質を進上して許しを乞い、戦火から区民を守りました。その時城(館)は焼失し祐忠は信長の一武将となりました。後、伊予の国(愛媛県)今治に七万石の所領を得、城主となり関ヶ原合戦(1600年)に西軍の一大名として2000人の部下と共に従軍しました。城址は此の地より北方150mの高台にあります。「小川の歴史」より抜粋 ----------------------------ココマデ 【2005.7.2追記】 「信長公記」の元亀二年の項に小川城の記述がありますので、紹介しておきます。 ------------------------ 志むら攻め干さるゝの事 八月廿八日、信長公、佐和山へ御出で、丹羽五郎左衛門所に御泊。先陣は一揆楯籠り候小川村志村の郷推し詰め、近辺焼き払ふ。 九月朔日、信長公、志むらの城攻めさせ御覧じ、取り寄する人数、作久間右衛門、中川八郎右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門、四人仰せつけられ、四方より取り寄せ、乗り破り、頸数六百七十討捕る。これによって、並郷、小川の城主小川孫一郎、人質進上候て、降参申すの間、御赦免なさる。 ------------------------ 一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。 |
