
| 馬洗い池の横に背後を尾根の切岸とし、三方を土塁で囲まれた一画がある。馬屋ではないかとされているが、小谷城内にあって曲輪の四周を囲んだ曲輪はここだけで本当に馬屋だったのだろうか、武者溜まりとも考えらるが・・・・・・。 |


| 大手道の御馬屋の横にあって、馬洗い池とよばれている。城内の曲輪に井戸らしき窪みを幾つか見ることができるが、現在でも満々と水を湛えているのはこの池だけである。 |

| 京極氏の家督相続による内訌を利用して家臣団の中で発言権を増した浅井亮政は、京極高清,京極高慶父子と対立するようになる。復権を狙った京極父子は江南の六角定頼を頼ったことで、京極高広を擁立した浅井亮政、浅見貞則、三田村忠政等は、天文2年(1533)六角氏と戦いに及ぶ。この時、江北と江南の境目に領地をもつ京極氏家臣の今井秀信が六角氏と内通したことを知った浅井亮政は今井秀信を神照寺で殺害し、小谷城内にその首を晒したという。 |

桜馬場は3段の曲輪からなり、南端の曲輪からは清水谷、および北国脇往還道(現在の国道365号線)を眼下におく。また中島城、丁野山城が築かれている岡山をも見通すことが出来る。ここが本当の馬場かどうかは疑問の残るところである。
中段の曲輪には浅井氏及家臣供養塔が建てられている。
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赤尾屋敷は本丸の東、本丸から7〜8m下がった位置にある袖曲輪で、曲輪の広さは25m×20mほど。赤尾という名前からすると、浅井亮政、久政、長政と三代に仕えた浅井家の重臣・赤尾清綱の屋敷跡と考えられる。
この曲輪の北端に「浅井長政公自刃之地」の石碑が建てられている。
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| 中世山城をあちこち観て廻るが、この小谷城の千畳敷ほど大きな曲輪はあまり記憶にない。さて、この大きな曲輪がどのような目的で使用されたのか。 |
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| 本丸の背後、中ノ丸との間に幅25mほどの大堀切がある。小谷城内にあって、北方(清水谷方面)に対し、防御施設をもっているのはこの本丸だけで、如何なる理由でこの本丸だけに後方防御施設が設けられたのか非常に興味を引かれるところである。 |

中ノ丸は本丸と京極丸の間にあって、ほぼ平坦な地形に3つの曲輪を連ねている。
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| 浅井亮政は天文3年(1534年)、江南の六角氏を後ろ盾として対立していた京極高清,京極高広父子と和解し、京極氏庇護のため小谷城に迎え入れた。京極丸は京極高清,京極高慶父子が住んだところから由来している。 |

| 京極丸は約50m×30mほどの曲輪を中心として構成されている。中核部曲輪の南東側にだけ高さ3mほどの土塁が築かれている。これも横山城方面の織田軍を意識していたことを示しているのか。 |

| 浅井久政の隠居所とされる。天正元年8月小谷城の北方小谷山山頂の大嶽城を落とされ、防御が手薄となった清水谷から攻め上がった織田軍に攻められ、久政は鶴松太夫の介錯により切腹して果てた、享年49歳。 |

山王丸は山王権現(現小谷神社)が祀られていたところから名前がつけられている。
小谷城の曲輪の中でも最高所(標高395m)にあって、詰の城とも考えられている。曲輪南東部の石垣は小谷城内でもっとも規模の大きなものである。
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| 山王丸は3つの曲輪から構成されており、中でももっとも高所にある曲輪には南面(大手道方面)は比高差があり、さらに土塁も配されているが、北方の清水谷方面には地形に沿って切岸だけで処理されている。 |
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