所在地:長浜市公園町
別 名 : −
築 城 :建武3年(1336)
初城主:佐々木高氏(京極道誉)
区 分 :水城
遺 構 :本丸跡・石垣・井戸跡・門(移築)
城 域 :250m×250m
市指定史跡
戦 い : 文亀元年(1502)
○京極高清・上坂家信
×
●京極材宗・浅井直種
天正10年(1582)
○羽柴秀吉 × ●柴田勝家
|

長浜駅から約15分
■長浜駅レンタサイクル 500円/日

・駐車:豊公園駐車場を利用
【訪 城】2000年11月
【撮 影】2000年11月
|
| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
お勧め度

|
|


天正元年(1573)織田信長は浅井氏を滅ぼした後、湖北三郡12万石を羽柴秀吉に与え、湖北の統治を任せた。
秀吉は天正3年(1575)に北国街道と中山道の分岐点の押さえる要所の地である今浜を長浜と改め、新たに城を築いた。これが長浜城の創築である。
本丸は豊公園を中心とした一帯で、秀吉時代から後年の内藤氏時代にかけて長浜城の城域は拡張され、北は殿町、東は南呉服町、南は港町まで広がっていたとされる。
現在の長浜城天守閣は1983年に復元されたもので、本来の位置とは違う場所に建てられている。本丸天守台は豊公園内にある。
長浜城は廃城となった後、慶長9年(1604)井伊氏が彦根城を築くにあたり、石材や建築材、瓦に至るまで運びさられ、長浜城は跡形も無くなったが、湖中の太閤井戸と共に、市内の大通寺に追手門、知善院に裏門が移築されて残されている。
また、彦根城の天秤櫓門も長浜城からの移築とされ、屋根瓦には井伊家の井桁紋に混じって内藤家の家紋である上がり藤紋が使われている。
なお豊公園の石垣は、公園化をするにあたって、散乱していた石材を集めて明治42年に積み直しされたものである。
天正3年(1575年)に羽柴秀吉が入城し、長浜と改名する以前、この地は今浜とよばれており、今浜に最初に城を築いたのは佐々木高氏(京極道誉)で1336年にまで遡る。
元亀元年4月姉川の戦いで勝利をおさめ、同年8月に越前・一乗谷で朝倉義景を討った織田信長は、天正元年には小谷城に立て籠もる宿敵浅井氏を滅ぼし、浅井氏との戦いで浅井氏家臣・堀氏への調略や横山城の城蕃として小谷城攻めに功績のあった羽柴秀吉に湖北3郡12万石を与えた。
当初小谷城に入っていた秀吉は天正3年(1575)に今浜の地に新たに城を築く、これが長浜城である。
この時点で秀吉は一国一城の主となり、秀吉は織田軍の中にあって宿老格の柴田勝家,丹羽長秀等を押さえ、丹波国を領し近江坂本城を持つ明智光秀に次いで、織田軍団の中で2の位置を得る。
こうした秀吉の出世ぶりをみても、信長にとって北近江を押さえることが如何に重要であったかを窺い知ることが出来る。この時の秀吉の出世を称え、秀吉が始めて城持ち大名となった長浜城を出世城とも呼ぶ。
天正10年(1582)6月本能寺で信長が自刃した後、清洲会議で長浜城と近江湖北3郡は越前・柴田勝家の領地となる。勝家は甥で養子の柴田勝豊にこの長浜城を任せるが、天正11年の冬、勝家が積雪のため越前・北ノ庄から動けない間に羽柴秀吉に落とされ後手に回り、賤ヶ岳の戦では江越国境の玄蕃尾城に本陣を構え秀吉軍と対峙するが、敗れることになる。
賤ヶ岳合戦後、天正13年(1585)から18年まで、山内一豊が城主となるが、山内一豊が小田原の陣の戦功で掛川城城主となった後は、内藤信成,信正が城主となるが、やがて廃城となる。
廃城後は、慶長9年(1604)井伊氏が彦根城を築くにあたり、石材や建築材、瓦に至るまで運びさり、長浜城は跡形も無くなったという。
【こぼれ話】
1983年に復元された当時、市会議員をされていて復元に尽力された方から伺ったお話では、この長浜城の復元するための費用は、なんと10億8千万円を要したとか。
天守閣だけでこれだけの資金が必要なことを考えると、戦国時代の大名はとてつもなく大きな権力を持っていたことが窺い知れる。
|

|
|