| 近江 箕浦城 |
| 【城郭の概要】 所在地:米原市箕浦 (旧坂田郡近江町箕浦) 別 名 : − 築 城 : − 初城主:土肥氏 区 分 :平城 遺 構 :曲輪跡 面 積 : − |
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・交通:国道21号線岩脇口東入天野川渡 ・駐車:宝福寺前の空地に5台 ・撮影:2000年10月,2008年3月
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【現地の状況】 浄土真宗本願寺派・久徳山宝福寺裏手を100mほど北へ行った所の、右手に1mほど土盛をした約20m四方の平坦地が箕浦城跡である。 箕浦字殿の一帯に広がる平城、京極氏の筆頭根本被官「今井氏」の居城とされる。明治7年の絵図から復原すると、北は通船川あたりで、南は天野川から水路を引き込み防御の堀としていた。 【城郭の歴史,その他情報】 箕浦城は箕浦荘の領主今井氏の本城で、今井氏の祖は藤原俊景の三男俊綱(九郎)である。 最初箕浦荘の地頭は土肥氏であったが、のちに今井氏が支配するところとなり、京極氏の家臣となった。 応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱のとき、近江においては京極、六角の同族二氏の争いとなり、今井高遠(美濃守)は京極持清に従うが、後に六角氏の旗下に入る。 元亀元年(1570)6月28日、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わったが、同年9月本願寺11世法主顕如が各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし対信長戦争への宣言布告が行われ、翌元亀2年(1571)に湖北十ヶ寺は信長に徹底抗戦する盟約書を交わした。 この一揆勢力の力を借りて、浅井長政は元亀2年5月、五千人の軍勢で堀秀村の箕浦城を攻撃した。横山城を守っていた木下藤吉郎はこれを知り箕浦へかけつけた(箕浦合戦)。 一揆勢を中心とした浅井軍は統率がとれず、下長沢で両軍が激突したが浅井軍は退却を余儀なくされ、さいかち浜、下坂浜、今浜と衝突をくりかえしたが、五千人の浅井軍は、わずか五、六百人の木下藤吉郎・堀秀村の軍に敗れた。 この時、おびただしい数の農民(一向宗徒)が非業の死をとげたとされる。さらに、前後の決死の戦いで犠牲となった門徒僧俗の霊を弔う鎮魂の碑、「殉教万人塚」が福田寺境内の本堂南側に建立されている。 |