所在地:長浜市西上坂町
別 名 : −
築 城 :室町時代
初城主:上坂氏
区 分 :平城(館)
遺 構 :移築門
城 域 :160m×155m
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国道8号線川崎町信号東入、西上坂町
詳細位置はコチラ 
なし
【訪 城】2000年10月
【撮 影】2000年10月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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上坂城は長浜市西上坂町にあって、1970年頃までは土塁と堀を廻らせた城址跡があったそうであるが、現在では児童公園となり土塁や堀などの遺構は残されていない。
しかし公園内には、当時西虎口に架かっていた本丸橋が城址碑の横に移築され、本丸橋の前には伊賀屋敷の北入口にあった茅葺きの門が移築されている。
なお、この公園の地名を「丸の内」といい、近くには「いがんど(伊賀守屋敷)」や「しなんど(信濃守屋敷)」といった地名が残されている。
上坂氏は、室町時代から北近江の守護・京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信,信光が出て、京極氏の執権として湖北統治の実権を握った。
しかし、大永3年(1523)に京極家の継嗣問題から起きた内訌により信光は失脚、代わって浅井氏が台頭し江北の実権を握るようになる。
上坂家信,信光は、代々治部丞を名乗っていたが、浅井氏の治世下になると伊賀守を名乗ったことが上坂氏が史料に表れる。
伊賀守意信は浅井家に仕え、天正元年(1573)小谷城の落城と共に浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦し、関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れたことで帰農した。
なお、伊賀守家の相伝文書である「上坂家文書」が、西上坂町共有として現存する。 上坂氏は、中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井」の管理者として知られ、姉川上流や右岸の村々との争いに際しは、その代表者としてのぞんだとされる。
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