近江 鎌掛城(かいがけじょう)

【城郭の概要】

所在地:蒲生郡日野町鎌掛
別 名 : −
築 城 :大永3年(1523)
初城主:蒲生秀紀
区 分 :山城 
遺 構 :土塁,堀切,井戸,堅堀
面 積 :150〜200m×30m

蒲生氏の紋

対い鶴


土塁と虎口
土塁と虎口

・交通:国道477号線日野町川原の信号から県道41号線方面へ、屏風岩を目当てに
 詳細位置はコチラ mapfan

・駐車:路上駐車2〜3台
・撮影:2001年6月,2001年9月
遺構の保存状態 ★★
遺構確認し易さ ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★

★の数の多い方が良い(または、激しい)









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現地の状況
 鎌掛城は鎌掛地区の通称"城山"の山頂に位置している。比較的知名度の高い城にも係わらず、地元で何人もの人に鎌掛城のことを聞いても知る人がいない。

 地図上からは非常に峻険な山なので慎重にルートを検討の上、正法寺山との谷を抜けて城山の南〜東に当たりをつけて登り出す。比較的なだらかな東斜面に道はあっても山頂を迂回するルートが延々と続く。

 捜すこと約40分間、諦めて西に延びる舌状尾根山麓にある鎌掛山屋敷跡からの再度登り出すが、標識もない上、道もない。約25分間の直登の末、最後の登りは岩場で高所恐怖症の私にとってはロッククライミングさながら。

 ようやく山頂付近の城域にたどり着く。南北に延びる尾根の緩斜面は長さ150〜200m、最も幅の広い部分で30mほどであろうか、四方は全て急峻な崖状地形。
 狭い尾根をこれ以上有効に使いようがないと思えるほど地形を巧みに利用して築城されている。

 主曲輪(25m×30m)は南端に位置し、傾斜地を平坦にするため3〜4m掘り下げており、土塁と土壁で東〜南〜西を囲み、曲輪が続く北側だけが開口された格好だ。
階段状の削平地が4段ほど続き、北端の曲輪(25m×20m)に至る。ここも主曲輪と同様三方を土壁と土塁に囲まれた構造で、甲賀地方でよく見る土塁に囲まれた方形城郭のミニチュア版といったところ。
 四方が急峻な崖だけにここまでするかという違和感さえ感じる。とりあえず言葉で表すとすれば「凄い城」である。なにが凄いかはなかなか言い尽くせない、難攻不落の城であるというのが最も適切だろう。

【登城口情報】
 登城ルートだが、鎌掛地区の屏風岩の標識に従って農道の終点に車を止める。ほどよく整備された山道をしばらく歩くと、屏風岩への標識が現れ、二俣に分かれた道を右手にとる。
更に登ること約10分。広い谷が幅2mほどの川となる辺りからに川を渡り、山中に入る。
道筋は薄く、傾斜はきついが、すぐに判りやすい道に出る。

唯一の目印となる案内板
唯一の目印となる案内板

【城郭の歴史】
 蒲生貞秀の死後、蒲生家は家督争いから内訌に発展し、大永2年(1522)蒲生高郷は六角定頼の援けを得て甥の秀紀の居城・音羽城を攻めた。
 8ヶ月に及ぶ籠城の後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。秀紀は音羽城を破却し、鎌掛城を築き、高郷は中野城を居城とした。

 蒲生氏は二家に別れ、大永5年(1525)秀紀の叔父高郷、その子定秀らは、禅憎祥善に秀紀を毒殺させた。秀紀は中毒するや、自ら腹を切り池に落ちて死んだといわれている。鎌掛城はわずか2年8ヵ月にして廃城となった。

山腹の井戸
山腹の井戸
堅堀
堅堀

近江の城郭