浄厳院

       楼門      
金勝山 浄厳院
 天正6年(1578)織田信長によって建てられた浄土宗の寺である。この地にはもと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺(天台宗)の跡地であり現在も大字慈恩寺として地名に残っているが、近江八幡市多賀町にあった興隆寺のお堂(本堂重要文化財)を移し、栗田郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院とした。
 また、本尊の阿弥陀如来像(重要文化財)は愛知郡二階堂にあった古寺より譲り受けたもので平安時代の作である。
 ここはまた「信長公記」(太田和泉守牛一著)に見られる、法華宗と浄土宗との間で争われた「安土問答」の場としても有名である。     安土町
                                       (現地案内板より

 本堂は昭和38年(1963)に修理され、朱塗りの楼門は、平成5年(1993)に解体修理され見事に復原されている。
       道標      
 "景清道"といわれる古道近くに建つ、浄厳院道の道標。
景清道は安土城厳院の前を通り、繖山の麓へと続く。(背後の山は六角氏の居城・観音寺城のある繖山)
 佐々木氏頼
     の墓
     
 浄厳院の広い墓地には旧慈恩寺時代からの一画があり、佐々木一族の墓が立ち並ぶ。いずれも風化が激しく彫られている文字は判読できないが、この墓塔は慈恩寺を建立した佐々木氏頼(佐々木家第6代当主)のものであると云われている。
この他に、六角満綱,持綱,時綱の墓と伝えられる五輪塔もあると云われている。
 和田伊賀守
   惟政の墓
        
 甲賀郡和田城主 和田伊賀守惟政の墓だと云われる五輪塔。(和田城


安土問答

 信長はかねてより、日蓮宗に対してこころよく思っていなかった。
何か機械があればとねらっていたところ、ふとしたことから安土に浄厳院で浄土宗と日蓮宗とが宗論を行うことになった。この宗論は浄土宗が有利になるように仕組まれていたから、当然浄土宗の勝利となった。
このことがあってから現在でも11月2日からの浄厳院の法要には必ず「かちどき念仏」なるものが唱えられている。



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