| 近江磯山城(虎ヶ城) |
| 【城郭の概要】 所在地:坂田郡米原町磯 別 名 :虎ケ城 築 城 : − 初城主:松原弥三右衛門成久 区 分 :平山城 遺 構 :土塁,曲輪 面 積 : − . |
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・交通:湖周道路の彦根市と米原町との境の磯山神社 ・駐車:磯山神社前に2〜3台 ・撮影:1999年5月
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【現地の状況】 磯山は西端を琵琶湖に接し、東西に延びる尾根の東端は、佐和山から尾根で続く物生山を前に切れる、長さ500〜600mの小さな山塊である。 昔、磯山は"指合" と呼ばれる内湖、松原内湖、及び琵琶湖に周囲を囲まれた地形だったと云われ、こうした地形を利用して、磯山の北端に磯山城、南端に虎ケ城とふたつの城が築かれている。現在では内湖はすべて干拓され、琵琶湖の水位は下がり、昔の磯山の姿はない。 磯崎神社の石段を登り切ると、視界の開けた平地に出る。幾つもの社が祀られている。その中に日本武尊の社もある。平安末期、都に攻め上る木曽義仲がここで祈願をしたとも伝えられている。 磯山城は小さな社が祀られている平地が主曲輪で、北方の眺望はすこぶるよく、長浜方面から近江町までを一望でき、天気が良ければ山本山、伊吹山を見通せる。 主曲輪の西に数段の曲輪らしき地形を認めるが削平は不完全で、自然地形との区別が難しい。一方、東側の階段状に造られた曲輪は比較的削平もきれいで、切岸下には横堀と土橋が確認できる。尾根の南には階段状の曲輪が至る所で確認できる。更に10分ほども歩くと、ほどなく東端のピークに出る、ここが虎ヶ城である。 虎ケ城とされる東端ピークの削平部は山中で最も広く、中でも物生山側の斜面に面した部分はきれいに削平され、周囲に帯曲輪を伴っているが、削平は不完全である。東に続く尾根にも階段状に曲輪が認められるが、強い防御意識は感じられない。むしろ石山に続く西側の尾根にのほうが防御意識が高い。 磯山城から虎ヶ城まで歩いたが、結局両城の境界を見極めることは出来なかった。これも磯山城と虎ヶ城が境目の城として、敵対あるいはひとつの城として機能する中での遺構が入り乱れ、重なり合った結果と考えられ、これらの遺構を個別に論じることは出来ない。 【城郭の歴史】 永正7年(1510)浅井軍に攻められ、城主・松原弥三右衛門成久は切腹し、落城したと伝わる。 元亀元年(1570)織田信長が磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻略するために付城を築城したうちのひとつの「北の山」であると云われている。(「北の山」は物生山であったとも云われているが、定かではない) また、井伊直政が関ヶ原合戦後、佐和山城を廃して城を築く際に、この磯山に城を築くことを考えていたと云われているなど、いわれの多い山である。 なお、彦根市にあった磯崎城は、この磯山城のことではなかったかとも考えられている。 【佐和山の支城としての磯山城】 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかります。 【雑感】 この磯山は佐和山や彦根山ほど高くなく、また山自体も小さい。仮に彦根城がこの磯山に築かれていたら、どんな城になっていたのか等と想像するとのも城巡りのおもしろさである。 |