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通称浜街道・芦浦信号を東入 詳細位置はコチラ ![]()
【訪 城】2000年7月 【撮 影】2000年7月
体力消耗度 ★:山道はほとんどなし ★★:10分〜30分程度の山登り ★★★:約1時間ほどの山登り
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信長もこの芦浦観音寺だけは格別に扱っていたといわれ。それも観音寺が支配する舟を利用する価値を見いだしていたと考えられている。 芦浦観音寺9代目の住職詮舜は秀吉の信任厚く、営事奉行,湖水奉行並びに地検奉行を兼ね、信長に焼き討ちされた比叡山の再建に大きな役割を果たした。瀬田唐橋の増築の管理や、伏見城築城の奉行までしたという。 現在では湖岸は3kmほど西になっているが、当時はこの辺りが湖岸であったという。観音寺はこの辺一帯における琵琶湖の航行権を握り、運上金をとっていたとされ、表門および外周を取り巻く堀は、寺というのは名ばかりで、まさに城郭である。住職兼湖水奉行としての格式を今なおとどめている。 その他の遺構として、貞享2年(1685)に永原御殿の建築物の一棟が書院(国指定重要文化財)として残されている。 なお、芦浦観音寺の拝観は予約制になっており、事前に申し込みが必要(TEL 077-568-0548)。拝観料は400円
八世賢珍は天正13年(1585)頃から豊臣政権の代官を勤め(同年7月1日豊臣秀吉金子請取状)、九世詮舜は同15年から蔵入地代官を命じられており、文禄4年(1595)までに高島郡・愛知郡・蒲生郡・滋賀郡など3万8770石余を管轄した。 江戸時代も郡代官として、天和元年(1681)には野洲・高島・栗太・甲賀・滋賀五郡3万4297石余(「酉之年納郷帳」滋賀県立図書館蔵)、同3年には大和国5061石余も管轄した。湖上交通を管轄する船奉行も兼任した。 江州湖水船奉行之次第によると、天正2年(1574)織田信長によって七世慶順が任命されたという。 豊臣秀吉が設置した船奉行として名がみえるのは詮舜が初めで、以後江戸時代にかけて朝賢・舜興・豊舜・朝舜が勤めたが、貞享2年(1585)罷免された。 文禄元年1月には加子改を行い、同年2月には坂田・上甲賀・神崎郡の兵糧米3万2000石を大津へ回漕している。 |
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