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天正10年(1582)、織田信長は明智光秀の謀反によって本能寺で自刃し、天下統一を目前にして49歳の生涯を閉じた。 この時の本能寺は現在の “京都市中京区寺町御池下る” ではなく、本能寺の南西、直線距離にして約600m、堀川高校の北、旧本能寺小学校跡(中京区油小路通蛸薬師山田町)付近で、本能寺跡を示す石碑が建てられている。 もっとも、現在の石碑も本能寺小学校の跡地に建てられる老人ホームの建設工事のために東に移動させられている。
【2006年10月4日追記】 工事も終わり、旧本能寺小学校の跡地には、特別養護老人ホーム,京都市立堀川高等学校、および本能寺会館などが建てられていました。 本能寺の石碑も従来のものに加え、新たな石碑が建てられています。
応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却された、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建。本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。 その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。
【所在地】京都市中京区油小路通蛸薬師山田町 詳細位置はコチラ ![]() 【訪問日】2005年3月6日 【現地を訪れて】 当時の本能寺は敷地も広く、30余りの坊があったと云われているが、今はどこからどこまでがその敷地だったのかも判らない。それは致し方ないにしても、信長自刃の地が石碑1本では寂しい気がした。老人ホームの建設が終われば、もう少し“信長の最期の地” らしくカッコをつけて欲しいものである。 |
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