永録10年(1567)信長に稲葉山城を追われた斉藤龍興が長島に入ると、信長はすぐさま北伊勢攻めを行い、永禄12年(1569)には北伊勢を制圧する。この時信長は二男・信雄を北畠氏の養子として入れ家督を継がせる。 元亀元年(1570)には石山戦争が起こり、本願寺11世法主顕如が各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし対信長戦争への宣言布告が行われる。この檄文には、「若し、無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候也」、つまり、“本願寺に協力しない者は浄土宗の門徒を破門する”として、門徒衆に対し信長戦争への働きかけをする。 顕如の檄文に呼応して長島願証寺を中心とした一揆衆によって攻められ長島城は落城。尾張堀江城も一揆衆に攻められ、信長の弟・織田信興が自刃。一揆衆によって肉親を殺された信長は、元亀2年(1571)に第1次長島攻めを行う。翌元亀3年(1572)には本願寺と休戦するが、顕如はこの時期に門徒衆に命じて岐阜城の周辺に要害を築き街道を遮断する。 天正元年(1573)9月小谷城で浅井氏を滅ぼした信長は、返す刀で第2次長島攻めを行い、桑名周辺の諸城を攻め落とすも、美濃への帰国途中に一揆勢の攻撃を受け、林新次郎等の家臣が討死する。 伊勢長島一向一揆衆の殲滅に執念を燃やす信長は、天正2年(1574)7月嫡男信忠と共に7万の大軍をもって第3次長島攻めを開始。7月13日には信長自身も出陣し、津島に陣取り圧倒的な軍事力で、まえの島,たろと島,市江島,鯏浦等の諸砦を焼き払う。これに対し、一揆衆は篠橋城,大鳥居城,屋長島城,中江城,長島城に分かれて対抗するが、信長は海上封鎖をすると共に兵糧攻めを行い、8月3日には大鳥居城、12日には篠橋城を落とす。これらの城に籠城していた一揆衆は長島城に追い込まれ、9月29日には一揆衆の最後の砦である長島城も落城した。
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