元亀元年(1570)6月姉川の戦いで勝利をおさめた信長は、阿波に敗走していた三好三人衆が京へ進入の動きを見せると8月20日に三好三人衆討伐のため岐阜城を出発し、28日には摂津の天王寺に着陣し、野田,福島の砦を攻撃する。
一方、本願寺11世法主顕如は9月になると三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告する。 元亀2年(1571)一向一揆衆が立て籠もる近江の志村城を信長に落とされ、ついで近江における一向一揆衆の拠点である金ヶ森城も落とされるが、翌元亀3年(1572)には、顕如と姻戚関係(信玄と顕如の妻は姉妹)にある甲斐の武田信玄も反信長戦線に加え、反信長包囲網の拡大を図る。
天正2年(1574)の伊勢長島に続き、翌天正3年には越前の一向一揆衆を壊滅させられ信長包囲網が弱体化すると、顕如は信長に対し屈辱的な講和を申し入れ、10月に講和を結ぶが、天正4年(1576)毛利氏の庇護にある足利義昭と与して、再度反旗を翻す。 しかし、信長軍によって三方から石山本願寺を包囲され、5月には四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、経済封鎖によって兵糧の調達は困難を極め、毛利輝元に援助を要請する。
要請を受けた毛利輝元は700〜800艘からなる水軍を送り込み、織田水軍300艘と木津川の河口で戦闘に及び、織田水軍を駆逐して石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功する。
木津川河口で毛利水軍に敗れた信長は、九鬼嘉隆に甲鉄船の建造を命令する一方で、天正5年3月には石山本願寺の軍事力を支える紀伊の雑賀と根来衆の討伐に軍を進め、鈴木孫一の居城を落とし鈴木孫一等を降伏させ、天正6年6月九鬼嘉隆の率いる甲鉄船6艘は和泉淡輪沖で一向宗門徒の船を大鉄砲によって撃破することで、信長は大阪湾の制海権を握り本願寺を孤立させた。
天正8年(1580)石山本願寺との戦いに勝利を確信した信長は、朝廷に働きかけて本願寺と講和を決意。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を結び、門跡の顕如は4月9日に石山を退去して紀州の雑賀に落ちた。
しかし、顕如の子・教如は徹底抗戦を叫んで、そのまま石山で籠城するが、7月17日には信長と誓詞を交わし、8月2日には石山本願寺を退去して雑賀に落ちた。
永禄11年信長が足利義昭を奉じて上洛以来、常に信長の野望の前に立ちはだかってきた本願寺・一向一揆衆との最大の戦いであった石山合戦は、ここに終結を向かえた。
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一向一揆の最大で最後の戦いとなった石山合戦。信長に惨憺たる敗北を喫した本願寺教団はこの合戦によりさらに発展する
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