越前一向一揆

 永正3年(1506)3月本願寺9世法主実如の命を受けた加賀,能登,越中の一向衆は越前の一向衆と呼応し、30万余という大軍をもって越前に侵入するが、九頭竜川の戦いで朝倉氏に敗れる。
 一向宗との戦いに勝利した朝倉氏は加賀一向宗の本拠である吉崎御坊をはじめとする本願寺の末寺である本覚寺,超勝寺等の諸寺院を打ち壊し、一向宗への弾圧を加える。朝倉氏と加賀一向一揆と対立はその後約60年間にわたって続くが、永禄12年(1569)朝倉義景は本願寺と結び対信長戦に備える。
 元亀元年(1570)4月越前に侵攻し、手筒山城,金ケ崎城を落とした信長に反旗を翻した浅井長政と結んだ朝倉義景は、元亀元年(1570)6月姉川を挟んで織田・徳川軍と戦う(姉川の戦い)が敗れ、天正元年(1573)には小谷城攻めから急きょ越前に侵入した織田軍によって一乗谷城を落とされ、山田庄賢松寺(大野郡)に逃れ自刃し、朝倉氏は滅亡する。
一乗谷の館
一乗谷の館
 朝倉氏を滅ぼした信長は、桂田長俊,溝江長逸を越前に差し向け、旧朝倉家臣の前田播磨守吉継に支配を任せるが、天正2年(1574)蜂起した一揆衆によって前田播磨守吉継は殺され、越前から撤退を余儀なくされる。
 こうして、越前が加賀一向一揆の領国となったことが、信長公記に記されている。
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 正月十九日、越前の前田播磨、国中の諸侍どもとして、生害させ候由、申し来たり候。子細は越前の大国守護代として居え置かれ候ところに、栄耀栄華を誇り、恣に相働き、傍輩に対し、万事付きて無礼至極に沙汰致すの条、諸侍謀反を企て、生害させ、その上国端境目に要害を構へ、番手の人数を置き、其の後は、越前一揆持ちに罷りなるの由に候。
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 越前を領国とした本願寺は、越前の奪還を目論む信長に対し、下間筑後守頼照を総大将として下向させ、燧城(ひうちじょう)に入れ、本覚寺,西光寺,専修寺などの坊主の率いる一揆勢は、杣山城や木ノ芽峠城,西光寺丸城,鉢伏山城、および杉津城を守備し信長の侵攻に備えた。

木ノ芽峠城砦群
木ノ芽峠城砦群

 天正3年(1575)4月に長篠城の西方設楽原で武田軍を破って、東方の憂いをなくした信長は、同年8月10万余の大軍を率いて越前に乱入。信長軍によって杉津城を落とされ、杉津城〜鉢伏山城〜木ノ芽峠城の防御ラインを崩されると諸城は次々に落城した。旧朝倉氏の居城・一乗谷に続き豊原を攻め落とされた一揆衆の越前支配は1年余りで終わりをつげた。
 越前を平定した信長は更に兵を進めて、加賀に進入し、能美,江沼の2郡をも平定し、柴田勝家を北ノ庄に置き、府中には前田利家,不破光治,佐々成政を置いて、柴田勝家の目付とした。
鉢伏山城の土塁
鉢伏山城の土塁


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