●概要
彦根藩の火薬庫跡と武家屋敷跡の遺構が、彦根城北東約2kmの旧松原内湖(佐和山の麓)から発掘されました。こうした火薬庫跡が城外で発見されたのは全国でも初めてのこと。
彦根藩の火薬庫「焔硝御土蔵」(えんしょうおどぞう)やそれを管理していた武家屋敷が有ったことは松原町に残る古絵図で知られていましたが、「琵琶湖流域下水道東北浄化センター」の増設工事に伴い、発掘されることになりました。
絵図には火薬庫が細長い倉庫5棟描かれ、周辺には火薬を管理する役所らしい諸施設、武家屋敷が描かれています。
建物は1878(明治11年)までは残存していた記録があり、彦根市史には、火薬庫に有った火薬類は、1876年に大阪の火薬商人が堺に運んだという文書があったと記されている。
●武家屋敷
敷地は50m×50mの方形で、一部本瓦葺きの建物2棟以上が検出されている。
瓦は建物の規模に比べると出土量が少なく、軒、玄関の一部にのみ使われていたのではないかと考えられている。
●火薬庫
基礎から、火薬庫が3棟あったことは確認できた。絵図には5棟描かれているが、残り2棟の遺構は発見できなかった。
火薬庫1棟は縦4.5m、幅29mの広さで、建物自体は本瓦葺きであったと考えられる。
その他、谷筋の入り口は土塀跡、石の階段、火薬庫の周囲には石組みで造られた排水溝などが検出されている。
●現地説明会でのQ&A
【Q】なぜ、城外に火薬庫があったのか。
【A】幕末の情勢を反映して、徳川譜代の大名である井伊藩では大量の火薬を持つ必要が出てきたため、急きょ隔離した地域での保管を行ったと考えられる。
【Q】井伊家の文書や絵図等で火薬庫があったということは判っていようだが、火薬庫であったという確証を得られる遺跡は出たか。
【A】出ていない。
【Q】正面の道から火薬庫に階段が付けられてるが、本来火薬を運ぶ道は階段ではなく、大八車等で運ぶことを考えると平坦な道ではなかったか
【A】北側の側溝に橋を架けてそこから運び込むようになっていたと考えている。
【Q】その道はどのようなルートをとっていたのか
【A】全く不明だ。
【Q】発掘はいつまで続くのか
【A】来年の3月まで行う。
【Q】期間として短くないか
【A】現在の発掘でも1ヶ月足らずであり、充分だと考えている。
【Q】発掘調査後は埋め戻しを行うのか。
【A】調査後は浄化センターの拡張に伴い遺構は無くなる。
【Q】文書や絵図などでは火薬庫は5棟あったようだが、現在3棟しか発掘されていないのはなぜか。
【A】発掘前には畑地であり、開墾された当時に残り2棟の遺構は全て失われたと考えられる。相当深くトレンチを入れたが遺構は発見されていない。
【Q】火薬庫はどのような建物だったのか
【A】火薬庫からは大量の瓦が出ており、建物は全て本瓦葺きと考えられる。
【A】武家屋敷(今井忠右ェ門邸)からの出土物はどのようなものか。
【Q】生活臭を感じるものが非常に少ない。本来、生活しておれば、かまどの焼けた土なども出るはずだが、無かったことから一時的に使われたものであろうと考えられる。
文責:箕浦 2001.11.4 |
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