小型阿弥陀石仏について

 2003年11月16日に開催された敏満寺遺跡石仏谷の現地説明会、およびシンポジウムに参加する中で、「石仏谷で見つかった石仏は16世紀のものである」と断定されていたことに、どうしてあの石仏から年代が分かるのか不思議に感じていました。こうした疑問をなんとか解きたいといろいろ調べてみて、ようやくその結論らしきものを得ることが出来ましたので、ご紹介しておきます。

 石仏の年代考証をする前に、阿弥陀如来石仏が造られるようになった事情背景から見ていく必要があり、話は平安時代から入って、まどろっこしくなりますが、興味のない方は読み飛ばして下さい。(^^)

★末法思想
 阿弥陀如来への信仰は、平安時代(794年〜1192年)から急速に高まり、阿弥陀信仰へ一挙に拍車がかけられたのは、末法無仏の世の到来に対する不安感だったからと云われています。
末法の世と云うのは、仏教の開祖である釈迦が入滅してから千五百年後に訪れる世のことを云います。(末法思想については、こちらに詳しく紹介されています)
 こうした末法思想によると、釈迦入滅千五百年後が平安時代11世紀の半ば頃に末法がくると信じられていました。この時代に生きた人々、中でも貴族達は仏の力にすがるようになり、すがる仏として数ある中でも極楽浄土の教主である阿弥陀如来を選び、死後は永遠の寿命を与えて貰つて生き続けようと、急速に阿弥陀如来への信仰が高まつていつたとされています。やがて武士が台頭し源平合戦が起こると、世はまさに末法とも云える現実が目の前で展開されてゆきます。

★阿弥陀信仰
 こうした世相の中で、阿弥陀如来は貴賎の別なく総ての人々を救うてくださるのだ、と学び取つた法然上人が、民衆すべての人々への仏教として浄土宗を開き、空也上人は無知文盲の庶民へ阿弥陀如来の救済を体で教えようと、市中へ踊り出て念仏を広めていくのでした。
法然上人に続く親鸞聖人が更に浄土希求の願いを庶民のものへと広め、空也上人の流れを得ての一遍上人が活躍し、こうして阿弥陀如来の信仰とそれを讃歎する六字名号「南無阿弥陀仏」の称名は、鎌倉時代(1192年〜1333年)の末期になると、広く日本国中の庶民の中へ阿弥陀如来信仰が定着していきます。

 平安時代までの阿弥陀如来をはじめとする諸仏の像は、大きな寺院の中でしか拝むことができず、それを拝めるのは貴族達や有力な地方の豪族達のみであり、地下人といわれた一般庶民は寺院の中へ入ることすらできないのがふつうでした。そこへ浄土教と総称される庶民のための仏教を興した憎達によって、諸仏を誰もが何時でも拝めるようにと仏像を野外に祀るようになり、野外であるならば風雨にさらされても損みが生じないようにと、石の仏像が造られていくようになります。これがわが国における一般的な石仏の起源です。

参考文献
  近江 石のほとけたち 瀬川欽一著(かもがわ出版)
  近江 石の文化財 瀬川欽一著(サンライズ出版) 
  蓮如実伝(第一部,第二部) 辻川達雄著(本願寺維持財団)
  一向一揆余話 出口治男著(方丈堂出版)



 ・敏満寺遺跡石仏谷の現地説明会概要
 ・シンポジウム 中世城郭敏満寺の謎
シンポジウム参加報告


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