石塁
貞享4年(1687)に書かれた安土城の絵図には大手道と直行するように堀の中に石塁が描かれている。
この石塁の東側の幅4.2mであるが、西側(今回発掘された枡形虎口近く)の石塁の幅は4.2mより狭く(目測で3.6〜3.8m程度)、石塁の北側面は大きな石が使用されているが、南側面の石は小さいこと及び、間詰石が無いことから、後年に積み直されたものと判断されている。積み直し時期は、ここから発見された陶器が江戸末期から明治時代のものであること等から、江戸末期から明治時代であろうと推定されている。
枡形門,門跡
今回の発掘で石塁が大手道南側にある石垣まで続いているかどうかが、最大のポイントとされていたが、石塁には二つの開口部が見られた。
ひとつ目の開口部は、排水溝を構成する石の大きさと裏ごめ石がないことから、開口部であったと判断された。この開口部の土間は、"たたき"となっており、直接船から出入りすることの出来る「水の手御門」のような構造ではないか。
もうひとつの開口部は、石塁が切れ、排水溝も堀に向かって90度曲げられていることから門跡であろうと考えられ、西側の石垣と合わせて枡形虎口を判断されている。
しかし、今回発掘された門跡には礎石が無く、「多分門があったのではないか」程度の推定でしかない。礎石は、水田拡張時に持ち去られたものと考えられている。
枡形門の石垣
枡形虎口を形成する石垣には築城当時の石垣の上に、もう一段年代の違う石垣が積まれていることが明らかとなった。この石垣は出土物から江戸時代後期のものであること。また裏ごめ石が無いことから畑地を造る際に積まれた石積みであることが判明した。
百々橋口への道の可能性
従来堀(沼)であったと考えられていた西側石垣の下に水路が発見され、この発見で石垣と堀の間に百々橋口に続く道があったとの見解が示された。
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文責:箕浦(2002.3.17) |
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