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安土城大手道
 大手道の発掘は20年計画で平成元年から始まった調査の中でも最もセンセーショナルな発見でした。
発掘前の安土城大手道は幅3mほどの石段が約50mほど続き、現在の總見寺の石垣に突き当たると、道幅2mほどに細くなった道を右に折れて總見寺境内をから再び石段で黒金門の手前に出る道でした。

 こうした道は昭和6年(1931)信長の350回忌に造られたもので、平成の発掘を経て環境整備された現在の大手道は道幅約6m、両脇の側溝を含めると約8mの広さの道が約180mにわたって直線的に続いています。
 城における城内通路は防御面からも屈曲させるのが通常であり、この大手道が発掘された時に歴史研究家達は「戦国期の城として常識では考えられない」、あるいは「戦うためではなく、見せるための城である」と、異端児・信長の城を評価しました。

 それら評価が正しいかどうかの結論は出ていませんが、信長は従来にない発想のものと安土城を築いたことが、この大手道からも窺い知れます。

発掘以前の大手道



発掘後、環境整備された大手道



徳川家康邸から見る大手道


 大手道は約180mを直線的に登ると伝徳川家康邸の前で西(左手)にほぼ直角に折れて、急な階段をジグザクに登り、伝織田信忠邸の前で總見寺跡へ行く道と黒金門へ登る道に分かれています。

 平成8年度(1996)の調査では、この伝徳川家康邸の前で三叉路になっていたことが道路遺構と側溝の石積みから判明しました。
これは總見寺に伝わる「近江国蒲生郡安土古城図」(貞享古図ともいわれる)に描かれている道で、1本は伝徳川家康邸付近から直接黒金門に至り、もう1本は東に折れ二の丸、本丸南面の石垣下を通って三の丸から本丸に至る(本丸裏門)道と推定されています。

 つまり、現在の安土城大手道において、伝徳川家康邸から伝織田信雄邸を経て黒金門に至る道は築城当時の道ではなく、貞享4年に貞享古図が描かれた以降につけられた道である可能性が非常に高いということになります。

近江国蒲生郡安土古城図(貞享古図)



徳川家康邸前から主郭部南面石垣直下の道
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